#1 kind of pink
1.Die Antwoord/Fatty Boom Boom
2.やくしまるえつことd.v.d/勝手にアイザック
3.さよならポニーテール/放課後れっすん
4.Base Ball Bear/SUNSET-KI・RE・I
5.神聖かまってちゃん/天使じゃ地上じゃちっそく死
6.Satanicpornocultshop/Left Handed Darling
7.Terry Poison/Smack Snack
8.桃色神社/僕、崩壊します・・・。
9.芳賀ゆい/星空のパスポート
10.Arthur/しらゆきひめ
11.大森靖子/最終公演
12.ももいろクローバー/ラフスタイル
https://www.mediafire.com/?48o4z0peczuzmn3

#1 kind of pink

1.Die Antwoord/Fatty Boom Boom

2.やくしまるえつことd.v.d/勝手にアイザック

3.さよならポニーテール/放課後れっすん

4.Base Ball Bear/SUNSET-KI・RE・I

5.神聖かまってちゃん/天使じゃ地上じゃちっそく死

6.Satanicpornocultshop/Left Handed Darling

7.Terry Poison/Smack Snack

8.桃色神社/僕、崩壊します・・・。

9.芳賀ゆい/星空のパスポート

10.Arthur/しらゆきひめ

11.大森靖子/最終公演

12.ももいろクローバー/ラフスタイル

https://www.mediafire.com/?48o4z0peczuzmn3

―『多摩1キロフェス』のように、郊外で作品を作る上で、都心との違いを感じることはありますか?

ウォーリー:演劇に関して言えば、考えさせる演劇と考えなくても楽しめる演劇があって、その中でも考えさせるタイプの演劇が衰退しつつあるように感じます。インスタントに消費できるものが流行っているというか。まだ郊外や地方のほうが、考えるタイプの演劇作品に寛容なんじゃないかと。たぶん理由はいろいろあって、地方や郊外のほうが時間もあって、客観的に社会全体を見ることができていたり、都心の人たちは忙しすぎて、休みの日まで考えさせられるようなメンドくさい作品に触れたくないのかな? と思ったりもします。

―わかりやすい「新しさ」だったり、「刺激」を消費するほうがラクですもんね。

DE DE:考えさせる表現が衰退しているという状況は、音楽も同じだと思います。東京に集まっている音楽に詳しい人のほとんどは、メディアで取り上げられたものに反応して、さも自分が見つけたかのように流行を追っているだけの人がほとんどなのではないでしょうか。僕はそういうのを「ファッションアングラ」と称しているんですが、そういう人は「なぜこれがいいのか?」を考えずに、「ニューヨークやロンドンで流行している」「今、キテる」「新しい」という文脈でしか話せないんです。そういうのに対して僕はアンチじゃないけれど、あえてその辺を外していきたい気持ちもあるんです。

―たしかに、都心の人々の動きを観察していると、情報を消費することだけにとどまってしまう人はとても多いと思います。

DE DE:僕自身はどれだけダサかったとしても、「自分の音」を作ろうとしているアーティストを評価をしたいと思っています。今やカッコいい音や演出のノウハウはネット上でいくらでも公開されていて、そういった音を取り入れていくと、一時は評価はされやすいのかもしれませんが、インスタントな活動になってしまう。2、3年後には「懐かしいね」と言われる可能性が非常に高いと思うんです。

24 :以下、佐賀県庁にかわりまして佐賀県民がお送りします :佐賀暦2006年,2006/10/27(佐賀県と汚職) 17:26:08.13 ID:JzYKHIEU0
「髪の毛」

髪を切りました
少し寂しいな
でもにあうかな
鏡の前で何度もチェック!
にあうかな?

145 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] :2014/02/26(水) 01:51:28.85 ID:XPg2XL1E0
出来たものが良い物なら分業でもいい
というか普通は分業の方が良い物が生まれる
個人名崇拝、天才信仰は商人のしかけるファンタジー

伊集院光「鼻歌で作曲する加藤ミリヤは、なぜ佐村河内守のように批判されないのか?」 http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1393344362/

実践 スカム・ミュージック?

実践 スカム・ミュージック?
山本精一

 スカムっていうのは、一種偶発的な現象であって、様式化した表現形態を指すものではありません。つまり、ワザとらしく狙ったりして、ショボイ演奏 をしたり、計算し尽くしてアタマの弱そうな音楽をやったりするような、そのような行為からこそ、最も遠い恒星系に属するものなのです。すなわち、本モノの スカム・ミュージックというものは、まず天然でなければならない。本当は上手に演奏できる者が、意識的に初心者みたいに稚拙にギターを弾くなんてのは、決 してスカミックなものとは言えません。私を含め、各国で、スカマーであると誤認きれている者の多くは、ニセモノです。天然ではないという意味でです。

 天然のスカム・ロッカーとして、さてそうするとどのようなアーティストが存在するでしょーか? 残念ながら、「アーティスト」などは、天然スカム界には居りません。もはやそういった次元では捉えられない者が大半なんですね。それでは、天然スカム・ ロックの一例を、解説を交えながら御紹介しましょう。

 場所は、私の経営する小さなライブ・ハウス、時間はPM2時頃です。各地の高校生バンドが3つほど集って、ホールを貸し切っているワケですが、そ の中で、トップ・バッターに指名された(つまり一番へタな)バンドが、演奏を始めるや、我々店のスタッフは、心臓が脱出する程のショックを受けてしまいま した。ギター、ベ一ス、ドラムス、シンセ、そしてヴォーカルの、どれひとつを聴いても、音程が合っているものが無い。つまり、全員、全くチューニングが出 来ていないワケです。もう、モノスゴイ不快感と、それに続く快感。あれはそう、確かに、良質のノイズを聴いた時に感じる恍惚感に、非常に近いものがありま した。まるでビート感というものが無く、これじゃあ猿の方が絶対に上手い、と断言できるドラマー。何か木や紙などをこすってるだけなんじゃないかと錯覚す るほど、コードどころか、音がほとんど出せないギタリスト。何が憎いのか、親のカタキのごとく、ガンガン拳を弦にたたきつけるだけのベーシスト。全く、ま わりの音とは無関係に、そして徹底的に無意味にジュワーというような脱力音を出し続けるシンセ。ヴォーカルは、それら猛烈な気狂い音の中に、これまた恐る べき無調な声で乱入、一気にトドメをさすといった有様。そして、このどう聴いても発狂ジャーマン・ノイズ・プログレにしか思えない曲が、最後の最後で、何 とピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」だと分ったときの衝撃!

 私は、こういうものが、ホンマモンのスカムロックだと思っています。彼らは、全く純粋に、ピストルズのカヴァーをやりたかったと。そして練習して 人前で、カッコ良くライヴをやりたいと。しかし、どうしようもなくへタなために、彼らが理想とするパンク・ロッカーとしてはステージに立てなかった。で も、そのかわりに、本当に、そこら辺のストレンジ・ミュージシャンも、遥か後方でヒレ伏すような、素晴らしくブッ壊れたスカム・ロックの名演を我々に聴か せてくれることができたのです。彼ら自身の意志とは全く無関係に。スカムっていうのは、そういうものなのです。

 しかし、それでは前述した様な、我々のような「エセ・スカム」はダメかと言えば、そんなこともありません。我々は、ナカナカ賢いですから、「偶発 的な現象」としてのスカムな部分だけをチョキチョキ切って、つなぎ合せ、「真性スカム」にかなり近いところまでたどり着くことができます。たとえば、練習 でミスった箇所ばかり集めて曲にするとか。ワザと弾けない楽器に持ち換えて演奏するとか。まあこれはこれで面白いし、良いんじゃないかと思ってやってるワ ケですが、やっぱり心中どこかに、ホンモンのクズ音楽に対する、コンプレックスの様なものが絶えずあることは否定できないところですね。シャブ中にでもな りますかね。

スタジオ・ボイス Vol.230 1995年

extramegane

失われた90年代には、「オトコノコ」が自信を失い、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジをはじめとする、戦うことができない主人公が現れたって話は、もう手あかに塗れているわけだ。さらには、アニメ的に言ってしまえば、祭谷一斗さんが指摘しているように、(http://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-entry-273.html)、ワタル、ラムネといった熱い主人公たちが跋扈していた時代が、クレヨンしんちゃんの少し前にあった。この熱さも、今にしてみればただの空元気で、どうにかして「未来を担う少年たちには自信を失ってほしくない」という悲鳴にも似た願望だったのだろうと思う。

でも、野原しんのすけは90年代に生まれた、しかも90年代に自信を失っていたはずの男性作家によって生み出された「戦う主人公」だった。
野原しんのすけが戦っていたのは誰かといえば、それはいわゆる「良いもの」とされるものだった。それはPTAだったり、教委だったり、つまりは自信を失い、子どものような弱い存在にしか強く当たれなくなっていた極めて一般的な大人たちのことだ。

ちんこを振り回し、ケツを見せびらかす。
そんな野原しんのすけは、大人が注意しないといけないのだが、その大人は野原しんのすけによって「みさえ」「とーちゃん」という威厳の欠片もない存在にされてしまう。そして、蛮行を繰り返す。野原しんのすけは徹底的に一般的な大人と戦い、「バブルを経て、すべてを失ってしまったお前たちに威厳なんて残ってないんだよ」と叫び続けた。それを認めないために、そしてまだ威厳が残っていると主張したいがために、大人たちはクレヨンしんちゃんという作品を罵倒し続けた。

でも、結局はあまりにも長く続いた失われた時代と、エヴァのような威厳を失ったことを肯定するような作品により、大人たちは自分たちがすべてを失ったことを認めざるを得なかった。子どもを、自分たちより弱く優位に立てる相手ではなく、共同体の中で暖かく育て未来を作っていくためのものとしてとらえるようになった。少子化が大きく騒がれ始め、年金の心配もされるようになった頃、クレヨンしんちゃんは家族愛を描いた映画として、世の中に広く受容されていった。核家族の代表として、自信を失った情けない大人と、未来のために勇気を振り絞る子どもと、その子どもの決意を守るための大人という、極めて時代的な家族愛のもとで。

野原しんのすけの戦いは、ある意味では蚊帳の外で叫び続けているだけで、気づいたら敵が変化していて形としては勝利したように見えるものだったのかもしれない。だが、彼は大人が、オトコノコが自信を失う中、その現実を受け入れさせるために戦っていたことは確かだ。

女ぎらいの弁

「大体私は女ぎらいというよりも、古い
頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思って
いるにすぎない。
女性は劣等であり、私は馬鹿でない女
(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに
会ったことがない。事実また私は女性を
怖れているが、男でも私がもっとも怖れる
のは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど
怖いものはない。
また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、
教育を全くうけていない聡明な人も沢山
いるから、何も私は学歴を問題にしている
のではない。
こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な
女性に会ったことがない不幸な男である、
という風に曲解して、私に同情を寄せてくる
女性がきっと現れる。こればかりは断言して
もいい。しかしそういう女性が、つまり一般論
に対する個別的例外の幻想にいつも生きて
いる女が、実は馬鹿な女の代表なのである。」

「女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽
と建築は女の手によってろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性
でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の
過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、
芸術において女性的様式は問題なく「悪い」
様式である。私は湿気の高い感性的芸術の
えんえんと続いてきた日本の文学史を呪わず
にはいられない。」

「私は芸術家志望の女性に会うと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才という
ものが理論的にありえないということに、
どうして気がつかないかと首をひねらざるを
えない。」
—————————————-
三島由紀夫の「女嫌い」に続いて萩原朔太
郎の「女嫌い」を紹介しよう。

「女嫌いとは、・・・人格としてではなく、
単に肉塊として、脂肪として、劣情の
対象としてのみ、女の存在を承諾する
こと。(婦人にたいしてこれほど・・・・・
冒涜の思想があるだろうか)
しかしながら、・・・多数の有りふれた
人々が居り、同様の見解を抱いている。
殆ど多くの、世間一般の男たちは、初め
から異性に対してどんな精神上の要求も
持っていない。
女性に対して、普通一般の男等が求める
ものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美
であり、単に性的本能の対象としての、人形
への愛にすぎないのである。
しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と
呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ば
れている。なぜなら彼等はどんな場合に
於いても、女性への毒舌や侮辱を言わない
から。
(「女嫌い」と呼ばれる人々は、女にたいして)
単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格
やを、真面目に求めているからである。
・・・・それ故に女嫌いとは?或る騎士的情熱
の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性
を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅に
よって導かれた、不幸な浪漫主義の破産で
ある。
然り!すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直
なロマンチストにすぎないのである。」

「すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて
いる。」

拝啓ミス・インターナショナル

スパンクス最終トラック完成

Oct-18-2006   葉山はパードン木村邸に日帰りで行って参りました。残念ながら仕事をしっぱなしで葉山の町や海は堪能出来ませんでしたが、帰りに木村さんに車で送って頂 きまして、深夜の高速をドライブするのは、ラカン的に言うと「堪え難いほど」の恍惚感があります。

 もう車買ってしまおうか。免許を取る前に。買うならやっぱりサーブかジャギュアだな。歌舞伎町も浄化浄化とうるさいし、湾岸辺りにマンションでも買っ て、熱帯魚でも飼い、毎晩アンズ酒のオンザロックでも舐めながらマイケルフランクスばかりを聴き、車を磨いて暮らそうか。等とも思うのですが、免許が取れ そうにないので(運転は出来る自信が有りますが)泣く泣く諦め、今、夜明けの恍惚感を収めるべく(恍惚や高揚を残したままベッドに着くと眠れなく成ります ので)、誰もいない、荒廃した未来都市の風景にも似た伊勢丹の角まで散歩し、コンビニエンスストアで買ったヤキトリをカラスに食べさせて(凄いのです。こ の時間帯のカラスは)から帰宅しました。世界広しといえども、早朝6時に伊勢丹の前でカラスにヤキトリを食べさせているジャズメンはワタシだけでしょう。 手のひらに乗せておくと、串ごとくわえて飛んで行きます。鷹匠にでもなった気分であります。

 カーステレオは本日完成した、スパンクハッピーの最後のCDをプレイしていました。野宮さんのヴォーカルは本当に素晴らしい。最近はお恥ずかしい事に、 歳を取ると涙腺が弱く成るのでしょうか、艱難辛苦は平気ですが、逆にほんのささいな事で泣いてしまうのですが、野宮さんが謳う「拝啓ミスインターナショナ ル」を聴いた時には、涙に濡れてしまいました。

 この歌を作ったきっかけは、アニー・スプリンクルという、ハードコアポルノの女優からモダンアーティストに成った女性の著書を読んでいて、ベトナム戦争に配属されている兵士からのファンレターが紹介されていた事でした。

 それは、真実の意味で深い深い愛と敬意に満ちた物で、紙面には、明日ゲリラに殺されるかも知れないその兵士の、唾と精液が塗ってあるのですが、精神的に も物質的にも、全く不潔感のない、信仰告白にも似た、実に尊い物であり、感激したワタシは「ファンレター」に関する、あらゆる書籍を図書館で探し出し、 ちょっとしたファンレター博士に成ったのでした。その名も「FAN LETTERS」と言う、分厚い本を見つけた時には「心から欲しい物は何でも手に入るんだ」という思いを深めた物です。そこにあったのは、映画スター、大 統領、スポーツ選手等に送られた、あらゆるファンレターでした。

 英語ですので複雑な物は読めません。電子辞など無い時代です。しかし、子供が書いた物だけは何とか読めたのです。その中の、ベネズエラの貧民窟に住む少 女が、ミスインターナショナルのベネズエラ代表に送った物を読んだとき、閑散とした高田の馬場の図書館で、ワタシは涙をこらえるのに必死にならざるを得ま せんでした。

 その文中には「学校から帰って来たら働かなくてはいけない。夜は寝る直前まで働かなくてはいけない」とありました、だから彼女は、その熱烈なファンレ ターを「今、学校に行く前に書いています」と書き始め、「もう学校に行く時間なのでこれで終わりにします」と書き終えています。テレビは近所の食堂でしか 見れない。おしゃれをする事は出来ない。あなたの髪は素晴らしい。あなたの王冠は素晴らしい。教会の神様は怖い。あなたが私の神様です。と拙い英語で書い てあるのです(厳密には、訳されていたわけですが)。「もう時間がない。行かなくてはけない。愛してます。愛してます。愛してます。愛してます。愛してま す。愛してます。愛してます」と書いてあるのです。


 有り難い事に、現在ワタクシには15歳から55歳までの少女ファンの皆様がおります。しかし「拝啓ミスインターナショナル」という曲を作らなかったとし たら、その数は100分の1だったかも知れない。と思うのです。スパンクハッピーが解散しようという現在に至るまで、あの歌詞を引用したファンメールが途 絶えた事がないからです。齢43になりましたが、「拝啓 菊地成孔さま あたしはあなたのファンです」という書き出しのメールを頂戴するたびに、ワタシの 中の、奥の奥の、もう手が届かないかと思われる程の場所に眠る何かに灯がともるのであります。この歌を野宮真貴さんが歌ってくださる事でスパンクハッピー が終了するというのは、怠惰、強欲、虚偽、色欲、憤怒、暴食、指折りあらゆる罪深くあろうと(笑)、勤勉に働きさえすれば(笑)神はご褒美を下さると思わ ざるを得ません。それではごきげんよう。

ayano-to

ayano-to:

美術(芸術、アート、contemporary art)とは何か——このような問いを前提に作られるものは、すべて近い将来滅びる運命にあるだろう。美術であろうがなかろうが、作りたいものを作る/作るべきものを作る/生きたいように生き、その痕跡として何かが残る――そのようなものしか後世には残らないだろう。悪いが今や美学者たちは、その忠言を聞くことが命取りになるウィッチドクターだ。このような僕の日常的な確信の一環としてこの展示はある。
-会田 誠